蒙古がユーラシア大陸を蹂躙したころは、ヨーロッパは騎士団がおり、日本には鎌倉武士団がいた。蒙古騎兵は、ヘルメットに胸当て程度と鞣革だが同じ騎兵でも騎士団と武士団は完全重武装で戦法もまず名乗りをあげて「遠からん者は音に聞け・・云々」しておるところを射かけられて「おぉ!卑怯な!」ということであったらしい。
ヨーロッパはローマ帝国から中世の封建時代を経て中央集権に戻っており、日本も平安朝から武家支配による封建制を経て大政奉還により中央集権に戻っておるところ歴史形態が類似しておると思料される大雑把な分析ではあるが。
中国朝鮮については秦や漢帝国による中央集権郡県制度など当時非常に優れた政治構造を持っていたのでついに19世紀まで日本でいう平安朝のような政治システムを続けたようである。

大化の改新前後
以前は天皇は大王と呼ばれており、氏族連合の盟主的存在であったようだが、聖徳太子の派遣した遣隋使の国書には「東日出る処の天子から西日没する処の天子へご機嫌如何・・云々」の文章もあることから王より帝の傾向も既に伺える。7世紀ごろから天智・天武朝あたりで「天皇」を公然と称号しはじめたものと思われる。
国家形態
大王から天皇へ称号が変わったとなれば必然的に国家形態は、連合王国から帝国となる天子は皇帝以上に対する尊称であって王には用いない。帝国は国々の集合体を意味するものであるから従って今でも日本人同士で「どこの国の生まれじゃ?」という会話が成立する武蔵の国、薩摩の国等々・・
もっとも今では「東京都埼玉県、鹿児島県等々」と答えるであろうが。
征夷大将軍
京都の朝廷の力はまだ根強いので源頼朝に学者あがりの大江広元あたりが知恵でもつけたか、大宝律令によれば征夷大将軍の職務権限として担当の占領地では軍政を施行することができる旨の条文があり権限を委任される上に認証官の任免も事後報告で行えるとなっており、拡大解釈で今は日本全国が内戦で征夷大将軍の管轄であるから幕府を設置して全国に軍政を布告できる。
大政奉還と王政復古
征夷大将軍が幕府を設置している状態は、政治形態上の変形で客観的には軍事政権である。この権限を朝廷に返還するのは大宝律令の概念で発生した制度の解任であるから現代風に言えば戒厳司令官の更迭、戒厳令の解除ということになる。
明治維新以後
封建制で地方分権統治であった幕藩体制の廃止は形式上の君主元首の地位にあった朝廷の全国再統合でもあり、その間も君臨すれども統治せずではあっても形式的には7世紀以来の国家形態を維持しており国家形態として帝国を名乗るのが自然であった。